八兆の大部屋

気が向いたら書く

好きとか嫌いとか自身の性格とか土曜の朝アニメとかオートバイの話とか

唐突に書きたいネタが浮かんできたので書いていく。

 

ところで皆さんはアニメとか好きだろうか。

私は好きだ。

いや、たぶん好きだ。

いや、本当に好きなのだろうか。

今回はそういうお話。

 

誰が好きであるとか誰々が嫌いであるとか、そういうことでここにたどり着いたなら即刻帰ってほしい。

ここはそういった俗的な人間が来るところではない。

 

人払いが済んだところでさっさと進もう。

人にはそれぞれ好きなものがある。もちろんない人はないだろうが、ある程度は好き嫌いがある。

食べ物レベルの好き嫌いというよりは、今回の話は趣味として○○が好きというほうが適している。

あなたが「好き」と思ったその対象への「好き」という気持ちはどのようにしてあなたの心に浮上してきたものだろうか。

私はアニメが好きである。基本的にはそういう風に通しているが、果たしてそうなのだろうか。それでいいのだろうか。

最近どうにもそうであるのかなんだかよくわからなくなってきたのである。

 

私がこのアニメ鑑賞とかいうろくでもない趣味に走り出したのは小学生か中学生かのあたりである。

小学生の2,3,4年のころは、アニメなんて恥ずかしくて見ていられなかった。

が、そのころから若干の躁鬱を患っていたので(今もだけれど)、ほんのたまたまの魔が差して(とんでもない言い方だな)土曜の朝のあるアニメを見てから、現実から逃避をするように毎週その時間を楽しみにして一週間を送っていた。

正直に言うとあの頃は録画をする場合は、親のレコーダーを使用しなければいけないため、録画もできなかった。

基本的に土曜の朝にどうしても外せない用事があると本当に鬱だったし、寝坊してその時間を過ぎると自身を罵倒するレベルだった。

仕方がないので、当時から今でもよくある動画視聴の方法で親のいぬ間に見逃した回を頑張って探していた。

そうやって先の気になるアニメを見る(逃避行の)時間を大切にしてよくもここまで生きながらえてきた。

逃避行と書いてはいるが、当時としてはアニメを見ることが現実逃避であることがよくまことしやかにささやかれていたように思う。(思えばマセガキであるが)

正直今でも何かを見ることが逃避行だということなんて書きたくもないし、実際そうであるとも思っているし、そうでないとも思っている。

実際のところ、自身のアニメを見る行動に関しては、現実からの逃避行が何%か占めているように思う。

もちろんほんの数%かもしれないが、どこの時代であっても、ある種映像作品はそのような範囲から逃れることはできない。

 

本題に入っていくが、アニメによる逃避行という部分に関しては、上に自身の経緯をたどっていたように、存分に自身の中にあるものだとは感じている。

現実からの逃避行。

けれど、習慣的にアニメを見るようになってから10年近くたった現在でもアニメを見続けている。

こうしている私はアニメに対して、「好き」と言っていいのだろうか。

人間、自己紹介をするときには「私は○○が好きです」と言うものであるが、私は正直に言うとそれをアニメにいうことができない(もちろんある種の社交辞令のようなものためでもあるが)。

別に嫌いではないのである。

では、アニメを見続けているのに、アニメが好きとはっきりと言えないのはなぜなのか。

前からこのことに関しては自分の中でわだかまりがあって、この案件に目を向けるたびに心の内を靄が覆うようで、思い出すたびに息苦しさを覚えていた。

今期何見てたとかそういうのも言えるくらいには、アニメを見ているにもかかわらずである。(今期はひぐらし卒とメイドラゴンSを見てた、あと別枠で機動戦艦ナデシコ)(早口)(す、すくねぇ)

 

この「アニメを見るのにアニメが好きかわからない現象」については、ある種、自分の自信の無さを発端にしているものかもしれない。

どこかアニメに対しては負い目を感じていて、それを強く好きというと社会的に抹殺されることに対して今でも心の中にそういった負の側面を抱えているのかもしれない。

ついでに言うと自分はオタトーク(のようなもの)がとんでもなくできない。

その作品に関して燃えている感覚を上手に他人を共有することができない。

そういったものを見るとどこか一歩引いた眼で見てしまう。

同好の士は同好の士でありたいのだが、どこかそういうものを扱うにしたがって負い目であったり、うしろめたさを持ってしまうのである。

 

最近ではめっきりアニメというものが世間に膾炙されてきたように感じる。

かつてはスタジオジブリ作品しか世間には受けが良くなく(それでも悪い時代はあったようだが)、〇曜ロードショーでは、ジブリ作品以外は扱ってはいけないというレベルでアニメ作品が放送されない。

しかし最近に関しては、定期的に起こるアニメブームよりもさらに爆発的にアニメが膾炙されたように感じる。

親子供一緒になって映画館に足を運び、一緒になって深夜帯のアニメを見ては、教室で一緒になってごっこ遊びを行うようである。

もちろん某滅の刃である。

別にそれ自体を悪くする話をしたいわけではない。

しかし、そういった一種の爆発的なアニメの社会への広がりは、アニメを逃避行によって見ている人間を日の目に当たる社会に再度目を向けさせるようで、自分としてはこういったことになると目を覆いたくなる。

同様の意味で、自分はアニメの話を進んですることができなく、一歩引いた眼でとらえてしまう。

アニメを見る行為から、アニメについて社会性のある場所で話すと自分の中のアニメが社会の光を浴びることになり、表立って話すことができなくなるのである(多分)。

とんでもなく、面倒くさい話をしているが、実際に共感を覚える同士はきっといるのではないだろうか。

もちろんまっとうだった人生を歩んでいる人間にはこんな文章は響かないだろうし、馬鹿なやつがいるもんだなあという風に言われても全くおかしくはない。

 

上に記載したアニメの話ができるかという話と同様の意味で、流行に乗ることがドヘタである。

というか流行に乗ろうとしている自分が激しく嫌いなのである。

流行に乗ろうとして、人気なアニメを見ても結局話すことは基本的にない。

もしくは日の目に当たっているアニメが日の目に当たっていて、語ることが少ない、自分だけの秘匿性のようなもの、優位性の用なものを持つことができないためである。

自分でもこの現象というか性格というかには本当に困っていて、そういう心理学的な現象があったら教えてほしいくらいである。

ニッチなものが好きなのであり、そこに日の目が当たって人口が集まってくると一気に冷めてしまう。

そんな性格自分でもわかってはいるが、面倒くさすぎる。

 

とりあえず、ここまでアニメが好きなのかを押さえながら、自身の困った考え方と性格の話をつらつらと書いてきた。

が、結局私はアニメが好きなのだろうか。

 

アニメは結局のところ、どこまで行っても虚構でしかない。

フィクションであり続けるから、そのフィクションをメタ的に感じ、フィクションをフィクションと理解しながら騙されたうえで感動する異端的なところに面白さを覚えているのかもしれない(そう考えれば劇も通じるところがある)。

そういった面白さもある。

毎期やってくる膨大な数のアニメの中で、今期の流行や自分だけのフェイバリットアニメを馬券を買うように当たりはずれを見極めて視聴するのが面白いのかもしれない。

自分でしか語れないアニメの面白いところ。誰々はまだ見ていないけれど、○○という作品が面白いということは語ることができるというアニメの秘匿性。

自分しか知らない最高の娯楽を私は持っている優越感。

そういった面白さもある。

 

もしかして私にとってアニメはただの研究対象でしかなかったかもしれない。(ここぞとばかりに書いておくが私の卒論の研究対象はアニメと虚構性である)

アニメのアニメであるが故のメタ性、もしくはアニメを本格的に真摯にみている人間への負い目や劣等感、もしくは罵倒そういったものを抱えながら、今期も見たいアニメを探すのである。

ここまで書いておいてなんだが、もしかしたら私自身はアニメを見ている私が好きなのかもしれない。

 

 

アニメの秘匿性についてほんの少し触れたが、この世には自身も知らないようなニッチなものは山ほどあるのである。

何もニッチ性でアニメに縛られる必要など何もないのである。

 

最近オートバイにハマっている。

動機としては車の免許は持っているが、車の駐車で事故するのが怖くて、駐車で事故することがほぼない原付を使用していたら、原付の不便さに嫌気がさして、普通二輪を取得。

その後あまりにも今まで考えたこともないような感覚を覚えてオートバイの面白さを感じて、今月大型二輪も取得した。

逆に車は便利ではあるが、それ以上にはなることのできないものであると感じている。

ああ、どうして好きと嫌いにここまでひねくれているのか。

バイクにハマりかけている中で自分を見失いそうだ。

 

そういう中で、私はアニメが好きなんだっけと思って書きました。

結論?

・・・私はアニメが好きでありたくて、今でもずっと理由を探して、もがいています。