八兆の大部屋

気が向いたら書く

好きな作品について

先日友人と「自分の好きな作品について」という題で話していたところで、いくつか思うところがあり、久しぶりにブログを更新する。

早速標題とは異なる話だが、最近黒澤明監督作品を見ている。

配信で見ているのだが、どうにも配信だと毎回毎回400円近くかかってしまうため、Amazon Prime Videoの「東宝名画座チャンネル」に登録して見始めている。

新文芸坐で初めて見た「七人の侍」に始まり、「蜘蛛巣城」「隠し砦の三悪人」「用心棒」「椿三十郎」「どですかでん」と見てから「生きる」まで見た。(そのあとも「天国と地獄」「酔いどれ天使」「悪い奴ほどよく眠る」「赤ひげ」と見進めているが)

もろもろの感想なども書きたいところではあるが、(多分ツイッターには書いた)「生きる」があまりにも良かった。

見てない人から見ればあまりにも単純なタイトルであり、最近の映画からかけ離れたコピーライターも真っ青なタイトルなんだろうが、この映画が非常に好感を持て、さらに言えばえらく感銘を受けた。

正直、映画の内容としては単調ともいえる。内容を簡略化して説明した際にそんなに手間がかからないはずであるからだ。

しかしこの映画の本位というか心を打つところは、この物語の展開に始まり、主人公を演じた志村喬の感動へといざなう芝居の見事さ(演出指導も入ればもちろん監督もであるが)と、主人公渡辺勘治へと視聴者自身が彼に対して思いを寄せることができる点、さらに言えばこの映画の内容を受けて、視聴者が自身の行動や考えを改めることができる点であるように思える。


この映画は、まずは単調にある男(主人公)の私生活を映し出され、物語の半ばにて自分が癌であることを知った主人公がついぞ亡くなり、亡くなった後に、主人公がにひたむきに勤め上げ、その主人公が成しえた一つのことを同僚や別部署の人間が、葬式の席で語り合い述懐する、という話である。

自分の死を悟った人間が、自分がこれまで積み上げてきたことがあまりにもないことに絶望する点、そして生き生きしている若者の生命力がどこにあるのかを見つけようとする点(何かを成そうとする点)から、自身が老年になるまでに生きてきたこれまでの行動を改め、何かを成しえようと尽力している姿を、のうのうと生きている人間たちが思い偲ぶところに涙を止めることができなかった。

最後の志村の、それこそこの世のものとは思えない「ゴンドラの唄」(いのち短し、恋せよ乙女~)の歌唱は聞いていて震えるような歌唱であった。

この映画を見ていて、なんで泣いてしまうかといえば、自分(視聴者自身)となんとなく姿を重ねてしまうからではないだろうか。


人間には思春期というものが存在する。一般的には性別から生まれる恥じらいなどが該当するが、どちらかというと私はこのころに「死生観」についてよく考えることができる時期なのだと思う。

自分はいったいどこから来たのか。死ぬということはどういうことなのか。死んでしまったら自分はどうなるのか。死ぬまでに自分は何ができるのだろうか、、、などなど。

「死」に対しては人間が人間である限り誰しも一度は疑いの念をかけ、成長するとともに時間とともになんとなく蔑(ないがし)ろにしてしまうものである。

しかし、「死」に対する恐怖があるからこそ、人間は成長することができ、人間自身の思想を倫理的にも現実的にも心理的にも想像的にも大きく発達させることができると考えられる。

本作はまさにそうである。


人間自身が一度は「死生観」から自身の「死」を考え、「死」に対して恐怖を抱き、「死」があることに泣いて悲しむ。

そういった「死」に対する恐怖から、自身のこれまでの「生」を嘆き、力(行動力)に変えることもできるのである。

「死」に対して、これまでのやるせない「生」を思い、それに対して「生きる」ということが何ということであるかを視聴者自身に喚起することが、まごうことなくできている作品が本作なのである。


もちろん、本作の感動できる点として、主人公が亡くなった後に、それぞれに故人を思い返し、あんなこともあったそんなこともあったと述懐しながら、故人への評価を改め、明日からは自分たちも主人公に負けじと頑張ろうと考えを改める(が、結局普通に過ごしてしまう)点も素晴らしい。

また、「死」という締め切りがこなければ人間は自分自身に喝を入れることができないということを表す反面、(結局何もできていない故人をしのんだ人々に対し)何事かを成しえることのできた主人公を礼賛することができる点も含めて見事であると言わざるを得ない。


とまあここまで「生きる」という作品を褒めちぎったが、なんでこんなに褒めちぎったかというと、本作を見終わった後にあまりにも号泣してしまい、自分自身「この映画を差し置いて、これ以上素晴らしい邦画はない」と考えてしまったからである。

ここで今回のブログの内容に回帰する。

邦画や洋画やアニメ映画やTVアニメや小説や漫画など、作品を媒体するメディアは多数存在する。

先日友人とこんな話をした。

「マイベストアニメ10は何になるか」である。

ぽっと出たような軽口での話ではあったが、正確には「「好きなアニメってなに」と聞かれたときに必ず返答するものは何か」という内容だった。


前も似たような「好き」に対することを記述したような気もする(前は自分の「好き」は本当に「好き」という感情なのかという内容だった)。


「好き」というものにも種類が存在する。「そのアニメがとんでもなく好きで、もう30回近く見ている」とか「非常に他人に進めることができるアニメではあるが、自分は一回しか見たことがない、けど好き」とか見た回数であったり、非常に感銘を受けたため好きということであったり、なんとなく何回も回していたら好きになっていたとか理由がさまざまに存在する。

というわけで今回も「好き」に対する考えについてである。


そういうわけで下に自分の好きな作品群を記述した。もちろん抜けはあるだろう。

(要するに今回も自分語りがしたい)


TVアニメ

Angel Beats!

スペース☆ダンディ

ギャラクシーエンジェル

翠星のガルガンティア

・Re:CREATORS

凪のあすから

 

天元突破グレンラガン

ふしぎの海のナディア

フルメタルパニック?ふもっふ

ひぐらしのなく頃にOVA含め)

機動戦艦ナデシコ


番外

魔法少女リリカルなのは


劇場アニメ

・楽園追放

・劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト


・プロメア

・さよならの朝に約束の花を飾ろう


1行開けているのは確かに素晴らしいが永久欠番となるほど好きであるか微妙だからである。

正直かっこつけや自分自身に箔をつけるためにリストに入れたなどは毛頭ない(と思いたい)。

確かにどれも素晴らしい作品で、この欄に乗せていないものでも度肝を抜かれるような作品は数多存在する。

しかしどうしても本当に好きであるか疑わしいのであえてリストには記載しなかった。


それは自分自身この作品が好きであるという作品を記載していくと無尽蔵に膨れ上がりかえってしまうからだ。

確かに自分だって今敏作品は面白いと思うし、少なからず押井守作品は好きであるし、ガンダム作品だって多数見た。

もちろん好きな作品としていろいろと挙げるのは確かに気持ちが良いものである。

あの作品のこのシーンが気持ちのいいアクションカットだから好き、この作品のそのシーンが臨場感があって好き、などなどはあるだろう。


しかしこれらのアニメが真意とするところ、評価されているところが存在しているうえで「好きなアニメって何?」と聞かれているときの返答として、大変失礼ではあるが、このような作品を挙げるという行為が、私にはいかにも硬派なイメージを他者に埋めつけようとしている策略に見えてならないのだ。

本当に君たちはこれら作品の物語の本意とするところを理解できているのだろうか。

ましてや、他人の言葉でこれら作品を理解したつもりになってはいないだろうか。

私はこれらの知ったかぶったような行為が全くをもって許容しがたいことなのである。

本当に好きであるのなら、その物語のうわべだけをもぎ取って好きであると語るのではなく、その作品を自分自身に取り込むという形をもってその作品を理解し、それを核として好きな作品として話すことができるのではないだろうか。


うまく言葉にはできていると思えないが、例とすると少女歌劇☆レヴュースタァライトで、有名な言葉を引用しながら物事を語る星見純那を自分の言葉で語れていないとして一蹴する大場ななの構図といったところであろうか。

つまるところ、この話が何々の有名な作品のオマージュだから面白いとか、そういった作品ごとの受け売りの言葉ではなく、自分のストレートな言葉で面白いと語り、自分自身にその物語から生まれているメッセージを取り込んでほしいのである。


話を戻すが、本稿のテーマとして挙げている「好きなアニメ(作品)って何?」という質問とそれに対する答える方向性・本意として存在しているものは何だろうか。

あえて言わざるや、これまで当人が何に影響を受けて、何に関心し、何に感動してきたのかを一言で表現するものである。

自分自身の言葉として取り込むことのできた作品群を好きな作品として、そこまで来てようやく他者へ、これが自分自身を構成してきたものであるとして紹介できるのである。

つまり「好きなアニメ(作品)って何?」と聞かれたとしたら、「好きな作品」というより「あなた自身の人格の形成に大きく作用した作品は何?」ということになるのではないだろうか。

それを肝に銘じて、その場その場の感情論で自分自身を語るのではなく、自分自身の「面白い!」という言葉と感性を通じて、自分自身を語りなおせるような、あなた自身の好きな作品というものを改めて捉えなおすのはいかがだろうか。