八兆の大部屋

気が向いたら書く

好きな作品と見た回数について

一つ前の記事で、私が挙げた作品群には自分がアニメが好きになった理由となったアニメや、内容自体に非常に好感を持てた作品や、制作者の意図に関心した作品、その存在自体が癒しとなることができる作品などがある。

その作品群の中には自分が一度しか見たことのないような作品がいくつかある。

というか一回しか見ていないのにリストに入れている作品がある。

 

時折、他者のコラム記事などで「何十回とみたこの作品がこれこれ・・・」というお触書のように記載された文言がいくつか見受けられたりする。

別に何回も見ることを悪いというわけではないのだが、個人的にはその本意がよくわからない。

 

よくある話ではあるが、他者に優位を持ちたいがために、スポーツでもなんでもその道に精通してきたものであるという証拠を提示するために、それに費やしてきた時間を披露することはよくあることである。

何歳からやっているとか、何年まではやっていたとかそういうことである。

他愛のない話ならまだいいが、ひけらかすようにそれをいう意味は何なのだろうか。

好みの度合いをひけらかしたいのだろうか。その作品に対する一種の愛情表現なのだろうか。

 

回数を提示することよりも、本当に必要なことはその内容を自分自身でその作品を補完してトレースできるようになっていることであるように思う。

○○のシーンが劇中でよかった。△の口上がかっこよすぎて、口上を覚えた。などなどそういったことのほうがよっぽど言われて面白いものである。

(もちろんコミュニケーション上必要であれば何回でもひけらかせばいいが)

 

私が思うに本当に何十回と見た人(見ようとする人)はセリフ自体や場面場面を自分自身の頭の中で完全にトレースしたかったのではないだろうか。

感動したシーンにたどり着き、見た当時と同じカタルシスを何度も味わうように、味わえるようになるために見るのである。

 

けれども私の先ほど好きな作品のリストには一回きりしか見ていないのに素晴らしいと膝を打ったものがいくつか紛れている。

では一回きりで素晴らしい、この作品が好きとしてしまうのはどうなのだろうか?

 

もちろん地続きで語ってきたように考えると、一回見て面白いと感じ、何かの折に見ることが自分から進んでできると自身が確信している作品ともいうことができる。

 

それとともに、以前好きな作品リストを記述したときにも記載したが、自分自身の言葉で(他者の受け売りなく)この物語の面白さを語れるところにある。

一回見たところで、この作品を満足したように感じられる。ある種、若者的な物語消費(時短的)とも考えられる、この「一回きりでの満足」を達成できてしまえるような作品であったというだけの話なのである。

 

まあ要するに、見た回数で誇ってくるのも一興なのではあるが、大事なのは自分の言葉でそれを愛せているかであり、時間的な欠如はあっても基本的に時間は未来に担保されているので、焦る必要はないのである。

 

 

先日、私の好きな洋画である「ランボー」がTVで放送されていた。

もちろん録画したし、また見てしまった。

面白くて、自分自身で何かでオマージュとしてこの作品の面白い部分をトレースしたいとも思ってしまう素晴らしい出来だった。

TVで放送するから、さあ見ようくらいの受け身の気持ちで構えておきたいものである。